チョコレートの雑学

「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」という言葉で有名なヨーロッパの偉人をご存知でしょうか?
そう、かの有名なマリー・アントワネットです。1770年にオーストリアとフランスの同盟に伴う外交政策のため、ルイ16世と結婚した彼女は、私腹の限りを尽くしました。
しかし、この言葉は、彼女の言った台詞ではないのです。1765年、ジャン・ジャック=ルソーの自伝『告白』(出版は1782年)で、彼がこの台詞を、「”大変身分の高い女性”が言っていたのを思い出した」という記述から、この女性がマリー・アントワネットだと言う後付けがされました。『告白』が書かれた1765年、彼女は9歳でした。「パンがなければ〜」は、なんとも可哀想な濡れ衣だったわけです。
しかし、この高貴な女性が慎ましい生活をしていた…というわけでは残念ながらありませんでした。生まれながらに”お姫様”だった彼女が、オーストリアからフランスへ嫁いだ際に多くの使用人や嫁入り道具と一緒に連れて行ったのは、チョコレート職人でした。
刻んだチョコレートに水を加えて溶かし、そこに卵黄を入れて沸騰しないように混ぜながらバニラや砂糖を加えて飲むホットチョコレートがお気に入りで、これは彼女の夫ルイ16世の先々代でもあるルイ14世も自身で作るほど傾倒したそうです。
実は、マリー・アントワネットの一言で生まれたチョコレート菓子が、未だフランスのお店で買うことができます。「ピストル(古金貨)」という名前のチョコレート菓子は、マリー・アントワネットが苦くて飲みにくい薬を飲むために作らせたと言われるコイン形のチョコレートです。
1779年、フランス王室薬剤師であったスルピス・ドゥボーヴは、薬をチョコレートで包んで飲むために今まで液体でしか提供されてこなかったチョコレートを固形に加工しました。彼はその後のフランス革命後に「ドゥボーヴ・エ・ガレ」というチョコレートブランドを開き、現在パリで一番古い歴史を持つチョコレート店となっています。

それからさらに後の1828年、ヴァン・ホーデンがカカオからカカオバターの抽出に成功し、1847年にジョセフ・フライというイギリス人が今のチョコレートの原型を作ったと言われています。

さて、ここまで「美味しいチョコレート」の話をしてきましたが、ここからはあまりの不味さにある人々から不評を買ったチョコレートをご紹介します。
1937年、アメリカの大手チョコレートメーカー「ハーシー(ザ・ハーシー・カンパニー)」は第二次世界大戦の戦場で戦う兵士のためのレーション(戦闘食料)として高カロリーなチョコレート・バーの開発をアメリカ軍から依頼されました。出来上がった「Dバー(Dレーション)」は、あまりの不味さに兵士たちから「ヒトラーの秘密兵器」と揶揄されるまでになってしまいましたが、軍が「不味いチョコレート」を作ったのには大きな理由がありました。
まず、このレーションは、嗜好品ではなく極限状態の栄養補給として食べる想定でした。兵士たちが普段から手軽に食べてしまうと本当に必要になったときに手元にない、ということを防ぐため、軍はハーシーに「茹でたじゃがいもよりもややマシな味」というなんとも苦笑がこみ上げる注文をつけました。また、暑い戦場に派遣される兵士たちが持ち歩く想定として、48.9度までの高熱に耐え、110gと軽量で、そして歯が折れるほど固く作られました。

その後、あまりの不評にアメリカ軍は「もう少しマシな味のチョコレート・バー」を再びハーシーに依頼し、出来上がったのが「トロピカル・バー」でした。こちらは甘味がなく硬すぎたDバーよりかは今のチョコレートに近い味がし、第二次世界大戦中最も生産されました。
ハーシーは、この戦争でこの2つの軍用チョコレートを30億個生産し、それらは世界中で戦う兵士達に配られていきました。
ちなみにトロピカル・バーは現代のアメリカ軍の標準装備品として残り生産され続けており、1971年にはアポロ15号の宇宙食に採用されるなど、注目を浴びました。

現代ではスーパーやコンビニに行けば手軽に買うことができるチョコレートですが、歴史を辿ってみると様々な顔を持つ食べ物と言えます。私達料理人が普段見ないチョコレートの雑学、面白話は沢山あります。是非調べてみてください。

ー余談ー
戦時中の食事事情は調べると面白いものばかりで、フランス軍にはワインの配給があったり、イギリス軍には紅茶とラム酒の配給があったりと、お国柄が凄く出てたりします。ちなみにアメリカ軍の兵士は休暇などで本土に帰ってきたとき、このチョコレートをもっと美味しい食品を持った一般市民と交換してたりしてたらしいです。ひどいですね。多分普通に茹でたじゃがいもより美味しくなかったはずです。

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